Advertisements


随心学


 朝鮮戦争勃発によりアメリカは、日本を「西側陣営の一員」として育成する必要に迫られた。そのために早期講和の方針を固め、ダレスを国務省顧問として関係国との交渉にあたらせ、同年11月には対日講和七原則を発表した。国内にはソ連を含む全面講和を要求する声も少なくなかったが、当時の吉田内閣はアメリカの方針に同調し、1951年、アメリカ?西側諸国中心のいわゆる片面講和条約(「サンフランシスコ講和条約」)を結んだ。