これは明治十四年の政変と呼ばれ、こ
これは明治十四年の政変と呼ばれ、このとき、伊藤博文らを中心とする薩長派の政権が確立した。この政権によって、日本は君権のきわめて強い立憲君主制への道を目指すことになった。また民間でも、国会開設の要求だけでなく、どのような国会にするかを明らかにする必要が自覚され、まず1881年に福沢諭吉系の交詢社が「私擬憲法案」を発表したのに続いて、民権派でも植木枝盛(1857~1892)をはじめ、数多くの案を発表した。同時に民権思想一般でも論争が展開され、民権運動の高揚を助けた。国会開設の時期が決まると、急進的な自由主義を唱える自由党に対抗して、1882年には大隈重信を党首として、イギリス風の議会政治を主張する立憲改進党が結成された。自由党は立志社?愛国社の流れをくみ、主として地方農村を基盤とし、改進党は都市の実業家や知識層に支持された。政府側も福地源一郎(1841~1906)らを中心に保守的な立憲帝政党を結成させたが、対抗できるほどの勢力を持てず、翌1883年に解党した。
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