一方幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越
一方幕府は、相模の海岸防備を担わせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越?庄内?長岡3藩の封地を互いにいれかえることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。幕府が転封を決定しながら、その命令が徹底できなかったことは空前の出来事であり、これは幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。そこで水野忠邦は、幕府権力を強化する意味からも、1843(天保14)年に上知令を出し、江戸?大坂周辺の合わせて約50万石の地を直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化を図ろうとした。しかし、他地域に代地は用意されたが、諸大名や旗本に反対されて上知令は実施できず、忠邦も失脚した。改革の失敗は改めて幕府権力の衰退を示した。
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